こんにちは、アラサー女の雪だるまです。
本屋でふと目に入った論語の本が気になり、買って読みました。
『ビジネスに役立つ論語』という本で、堅苦しい読み物でなく論語にさらっと触れることができます。
この本を読んでいたらふと高校生の頃、通っていた書道教室の先生から言われた言葉を思い出したので、ご紹介したいと思います。
論語 仁に当たりては、師にも譲らず
そもそも論語ってなんだっけ?
論語は、二千数百年前に孔子の弟子によって編纂された、儒教の経典です。
野村茂雄監修『ビジネスに役立つ論語』より
『大学』『中庸』『孟子』とともに「四書」の一つに数えられます。
論語は、孔子の言葉や行いをまとめたものです。
孔子は春秋時代の中国の思想家で、仁を唱えていました。
仁、とは人への思いやりの気持ちのことを指すようです。
儒教の経典なので、儒教を信仰するうえでのよりどころとなる書物ということですね。
へぇ~そうなんだ~
その中で私が目に留まったのは
仁に当たりては、師にも譲らず
です。
意味としては「思いやりや自分が善い行いだと信じたことに当たっては、師と仰ぐ人であっても遠慮してはいけない」という内容です。
ちなみに『ビジネスに役立つ論語』では、自分の考えが正しいと思ったら尊敬する上司や先輩と意見が異なっても芯を折らずにいましょう、という内容が書かれています。
孔子は仁に重きを置いて、その仁においては師にも譲らななくていいと言っていますので、つまり、自分の大切にしている事柄で自分の言動・考えが良いと思ったら、尊敬する師も気にせず自分を貫けってことを言ってるのですね。
私はこの「師」と「師にも譲らず」というワードからかつて通っていた書道教室の先生を思い出しました。
書道教室の先生について
その先生は私にとって尊敬する師でした。
私の通っていた書道教室は小学生から社会人まで通える教室でした。
おじいちゃん先生で、いつもニコニコしていて子どもと同じ目線で話をしてくれるので、小学生からも好かれていました。
先生は書道の腕はもちろん、博識でその知識を分け隔てなく生徒に教えてくれる人柄のいい人でした。
教え方も上手で分かりやすく、知識を得ることが楽しことだと自然に感じることができました。
先生の教え方は、自分を賢く見せるのではなく相手を賢く思わせる教え方でした。
「先生の言ってることが分かった!難しい内容だけど分かった!難しい知識がついた自分ってすごい!」と生徒自身が自分が賢くなったと思う事ができる、知識を分け与えるような教え方をする先生でした。
また、私は小学3年からこの書道教室に通い始めましたが、自分の級や段位が上がるにつれ、先生の書の技術がいかに優れているかが分かるようになりました。
そのため、私にとって先生とは、人としても書家としても尊敬する師でした。
今でも尊敬する人は?と問われると、真っ先に思い浮かぶのは歴史上の偉人ではなく先生です。
それくらい、私は先生のことを慕っていました。
尊敬をしているだけあって、私は先生のような美しい字が書きたい思うようになりました。
先生のような美しい字を書くために、先生のお手本を穴があくほど見て、先生のお手本を書いているときの筆先の動き、腕の動き、筆の傾き、書くスピード、書くときのリズム、等々全神経を集中させて感じとる努力をして真似しました。
また、先生の教えも吸収し実行する努力をしました。
私は小さい頃から控えめな性格で、学校でポスターの字を書いてほしいとか頼まれても嬉しい反面とても恥ずかしくて断りたいと思ってしまう人間でした。
しかし、書道の先生が「そういうのは快くどんどん引き受けなさい。うまくなるよ」と教えてくれたので快く引き受けるようになりました。
事実、先生はお願いすると教室の課題とは関係のないものでも「いいよ~書いてあげるよ~」と快く引き受けてました。
そういう姿を見ていたから、私も実行できたのだと思います。
少しでも先生のようになりたかったので。
高校生、大学生になると段位も上がり、自分の字に自信がついたり思うよう気持ちよく書けるようになったりしました。
しかし、それと同時に先生の技術の高さ、作品の完成度、筆のはしり、線質など、今まで見えなかった部分が見えるようになりました。
そして、やっぱり先生にはまだまだ敵わないと改めて思いました。
それまでは字の形ばかりにこだわっていましたが、先生の線質や空間の使い方がいかに優れているかそれが美しさの元なのだと分かるようになりました。
以前、私が書道の展示会に行ったとき、他人の作品のどんなところを見ればいいのか先生に聞いたところ「線質を見てごらん。あとは何となく感じればいいんだよ」と言ってました。
また、あるときの指導では「黒い部分を見るんじゃなくて白い部分を見て書いてごらん」と言っていました。
黒い部分とは墨(自分が書いた文字)のことで、白い部分とは半紙(余白)のことです。
また、全てにおいて角度を意識するよう言われました。
腕の角度、筆の角度、筆先の入りの角度、横棒・縦棒・払いの角度、作品の行全体の角度等、先生が「角度先生」と自称するほどに角度について指導を受けました。
・・・と、まぁ先生から受けた指導は数多く、書道のことから書道以外のことまで色々教えていただきました。
その中でも私にとって一番の衝撃的な教えは次のものでした。
先生のようにきれいな字を書きたかったら、先生の真似をしていたらダメだよ。先生を越えるくらいの勢いでないと。
私にとってあまりにも衝撃的な言葉すぎて、最初は意味が理解できませんでした。
私は先生のことを尊敬していて、先生は書において絶対的で、そんな先生のようになりたくて、先生の字の形や書き方を真似して小学生からずっとやってきたのです。
そう、先生を越えるというその発想自体が青天の霹靂でした。
その時から課題に向き合う姿勢が変わりました。
先生はどうしてこんな風に書いたのか、どんな意図でこう書いたのかと考えるようになり、私はこんな風に書いてみようと思うようになりました。
そうしていくと、自分の線質が良くなるのを感じ、空間や角度も自然と意識できるようになりました。
言われたばかりの頃は苦労しましたが、次第に書道がもっと楽しくなりました。
尊敬する人を越えるということ
仁に当たりては、師にも譲らず
この言葉の意味自体は、思いやりや善い行いにおいては自分が良いと思ったことを貫き師にも遠慮しないでいい、という意味です。
しかし、私は「師にも譲らず」という言葉の真意は「師を越えていきなさい」ではないかと感じました。
孔子が弟子のために教えを説いたのなら、そういう意味もこもっていると思います。
孔子のように自分の知識を弟子に分け与えて、後世に伝えていきたいと思うような人なら、絶対弟子に自分以上になって世を継いでいってほしいと思うはずです。
論語には様々な孔子の教えが書いてありますが、師として弟子に一番伝えたいのはこれなんじゃないかと思います。
世の中には弟子や生徒や部下等、自分の指導していた人が自分よりも立派になるのを面白くないと思う人もいるかと思います。
たぶんそういう人の方が多いと思います。
だって弟子や生徒や部下に越されると、プライドが傷ついたり、悔しかったり、自分を惨めに思ったりしますよね。
自分を越えていってほしいと思えるその心こそ、尊敬に値しますよね。
さて、ここまで話してきましたが、皆さんには尊敬する人がいますか?
その人に憧れますか?
その人のようになりたいと思いますか?
尊敬する人のようになりたかったら、その人を越えようという想いで努力してみてください。
「その人のようになりたい」と「越えたい」とでは全く考え方や見るべき視点が変わってきます。
そして自主性が身に付くと思います。
「仁に当たりては、師にも譲らず」の精神で頑張ってください!
少しでも参考になったら嬉しいです。
そして、少しでも自分を変えたいとどんな小さいことであっても頑張る人を応援しています。
では、最後までお読みいただきありがとうございました。
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